登山サークル アウトドアチャイルド

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<<「彷徨える独身者」
2026年1月4日
投稿日
2026/01/05
 2026年1月4日。日曜日。10時12分。青梅行きの電車の中。温かい蕎麦茶を飲んでいる。
 昔、学校で宿題を出され、それをこなすためには、国語の辞書が必要だった。しかし私はそれを持っていなかったので、それを近所の秀才に借りた。しかしその辞書があまりにも難しすぎたので、宿題をする事ができず、私は、狂ったように泣き叫んだ。家の者は最初それを怒ったが、私があまりにも長々と泣き叫び続けるため、しまいには私を哀れに思い、そして心配顔で、温かい牛乳を持ってきてくれた。
 あれは、小学四年生くらいの時だっただろうか。家の者が心配顔で温かい牛乳を持ってきてくれた光景を、今でも鮮明に覚えている。
 そのように、絶望的に分からないという局面に、その後も幾度も遭遇しているが、今の私は、だからといって、泣き叫んだりはしない。その代わり、牛のように愚鈍にコツコツと分かるための勉強を続ける。そしてやがて、分からなかった事が、分かるようになる。出来なかった事が、できるようになる。
 そして今、それと同じような感覚を、数学のシュレーディンガー方程式に対して、抱いている。それを理解するためには、微分積分とか三角関数とかの知識が必要になってくる。その他にも、波とか、色々な知識が必要になってくる。偏微分とか積分とかオイラーの公式とかの知識も必要になってくる。
 シュレーディンガー方程式のユーチューブを観ていても、必ず途中で分からなくなる。なぜかというと、それを理解するための前提知識——三角関数とか微分積分とかの知識を、私は持っていないからだ。数学ユーチューバーは、前提知識を持っている人を対象にして、講義を行なっている。そのため、私は途中で必ず分からなくなり、さらに、なぜ分からなくなったのかさえ、分からない。そして、何を勉強すれば分かるようになるのかも、よく分からない。
 根性なしの小学四年生の頃の私だったら、分からないことに絶望し、きっと泣き叫んでいたことだろう。
 しかし思うけど、私は小学四年生のとき、なぜあんなに泣き叫ばなければいけなかったのか。なぜそんなに学校の宿題ができない事が怖かったのか。なぜそんなに学校の先生が怖かったのか。
 その翌日はもしかしたら、仮病を使って、学校をズル休みしたかもしれない。そして、前日泣き叫んだ私を哀れに思った家の者は、それが仮病だと分かっていながら、ズル休みを大目に見てくれたかもしれない。
 確かに私は当時の学校の男の先生に、よくビンタされていた。そしてある日、その先生に呼び出され、二人っきりで、話をした。
 その時、その先生は、とてもしょんぼりとしていた。なんか、私にビンタしすぎたせいで、それが問題になり、私もそのため学校をよく休むようになり、そのためその先生は、校長先生からこっぴどく怒られた後のような感じで、ひどくしょんぼりとしていた。私の家の者が学校に文句を言って、そのためその先生は教頭先生にこっぴどく怒られた後のように、ひどくしょんぼりとしていた。そして、私が本当にその先生の体罰に苦しんでいるのかどうか、じかに私と話して確かめたいと思ったように、私はその先生から呼び出され、二人っきりで、あれこれ話をした。私にあれこれ質問するという形ではなく、私にクラスの問題について相談をするという建前で、やんわりと、こっそりと、私の気持ちを推し量るというような、そんな話し方であった。
 そしてその後、その先生は学校から消えた。
 結局、辞めさせられたのかもしれない。ことによると、辞めさせられることが決まった後に、その先生は、私の気持ちを確かめようと思い、私を呼び出して、やんわりと、色々と話をしたのかもしれない。そのくらい、その時の先生は、とてもしゅんぼりとしていた。
 私は確かにビンタされまくった。そのためそれに慣れて、ビンタがまったく怖くなくなった。するとある時、徹底的に、何度も何度もビンタをされた。その時は、私が泣くまでビンタが終わりそうになかった。
 そのため仕方なく、泣きまねをしたか、あるいは、本当に泣いたかもしれない。確かに、ある時、しつこくビンタをされまくり、「これは泣くまでビンタをやめないな」と思ったことを、記憶している。だから、泣きまねをするとか、平気な顔をやめるとか、本当に泣くとか、したかもしれない。そのあたりは、よく覚えていない。
 確かに怒りっぽい先生であった。しかしその先生に、そんなに悪気は無かったと思う。性格が悪い先生ではなかった。生徒が悪戯しても、ニコニコ笑っているような先生であった。
 確かにビンタは良くしたが、体罰が悪い事だとは、あまり思っていなかったのだろう。いつも正しい事だけをしているつもりだったのだろう。だから、辞めさせられる事になり、ショックを受けたのかもしれない。その先生はその先生なりに、生徒に愛情を注いでいたのだろう。感情的だが、善良な先生だったように思う。
 私が、滅茶苦茶ビンタされたのだって、それは、私が悪かったからだ。私が、彫刻刀を振り回して、同級生と喧嘩したのである。その同級生もまた、彫刻刀を振り回していた。そんな、刃物を使った危険な喧嘩をしたのである。だからその先生は激怒して、そして、私を徹底的に躾けようと思い、私とその同級生に、ビンタをしまくった。しかし、いくらビンタしても、私が全然反省した態度を見せなかったため、だから仕方なく、私が泣くまで、徹底的にビンタをした。
 とかなんとか思いながら、久しぶりに、温かい珈琲を飲み干した。昨日は、温かい焙じ茶を飲んだ。健康のためずっと酒とカフェインは禁止していたが、最近その禁止を悉く破ってしまっている。そして今、一番悪いのは酒だろうと思っている。しかし今日もまた、エビスビールを飲んでしまう可能性がある。
 しかし今日は、何食おう。朝起きて、冷飯が中途半端に残っていたので、それに熱々の麦茶をかけて食った。それから、昨日シャーペンで紙に書いた数学メモを、ボールペンでノートに書き写した。
 数学の理解は、少しずつ進んでいる。もし私が小学生で、こんなに熱心に数学の勉強をしていたら、将来は数学の先生になれたかもしれないくらい、この年末年始はかなり熱心に数学の勉強をした。なぜならユーチューブでとある物理学者が、「世界は数式でできている」と言ったからだ。そして、「数式は言語である」と言ったからだ。だから私は数式に興味を持った。その物理学者の言葉を実感したいと思った。そして、数学ユーチューバーが、「数学は美しい」と言ったのも、数学に興味を持った理由の一つである。「世界は汚ない事ばかりだが、数学だけは美しい」、そんなような事を、そのユーチューバーは言った。私はその美しさを実感したいと思い、数学に興味を持った。
 それと、私はプログラミングの仕事をしているが、五十二歳の今、その能力が衰えることを恐れている。そのため、その能力が衰えないように、数学を勉強しているという理由もある。一応、数学という、難しいものにチャレンジしていれば、ボケ防止にもなり、安心できる。
 プログラミングの仕事をしていると言ったところで、私が使うプログラミング言語は、PHPという、簡単なプログラミング言語である。だから、本格的なプログラミング言語である、JAVAとかC++のプログラマに比べたら、私は能力の低いプログラマである。私は、本格的なプログラマとは言えない。だから、JAVAとかC++に憧れがある。もっと本格的なプログラマになりたいという願望もある。
 そして、「数式」というプログラミング言語は、JAVAやC++よりも、さらに本格的なプログラミング言語だと思うのだ。それが最高峰のプログラミング言語だと思うのだ。なぜなら世界は数式で作られているからだ。
 この世界は仮想現実であるという説がある。この世界は、リネージュのような、3DのRPGのような世界——コンピューターの中のゲームのような世界だということだ。すべて、コンピューター上で作られた、情報で出来ている。この、私たちが住む3次元の宇宙は、実際には2次元の平面に記録された情報(ホログラム)が、立体的に「再生」されたもの。そんな怪しげな仮説を唱えているのは、胡散臭い都市伝説の人ではなく、真面目な物理学者である。
 過去と今と未来は同じ重さで同時に存在していると、唱える者もいる。つまり、全ての過去の自分も、今の自分と同じ重さで同時に存在し続けている。あの、ビンタ先生との小学生時代も、永久に失われることなく、存在し続けている。
 などと思いながら、小便がしたいのを我慢して、電車を待っていたが、いつまでもそれは来ず、だから仕方なく駅のトイレに駆け込んだら、間の悪いことに、その間に電車は行ってしまった。そしてまた、三十分以上それを待つ羽目になっている。そして余りにも飲料を飲み過ぎているため、再び小便がしたくなっている。
 今日は家に帰ってから、再び量子力学入門のユーチューブ動画を、メモを取りながら観てみようと思っている。またどこかで分からなくなってしまうだろうが、メモを取ることで、何を勉強すれば分かるようになるのか、そのヒントくらいは見つかるだろう。数学ツールなんかも、探せば色々と見つかるかもしれない。要するに、イメージできない事は、分からない。視覚的にイメージ出来さえすれば、きっと理解できる。少なくとも、高校数学や高校物理レベルなら、きっと理解できる。昨日は、全微分でつまづいた。朝も惰眠を貪りながらそれについてずっと考えていたが、どうしてもイメージできず、理解できなかった。色々と分からない事だらけである。
 ユーチューブで紹介されていた、仏教の思想とリンクした、量子力学というものに興味を持った。その基本方程式が、シュレーディンガー方程式だが、今はそれが理解できていない。それを理解するために、波とか偏微分とか三角関数なんかを勉強した。量子力学は、人間の直感では理解しにくい学問である。量子の世界は、直感に反するような現象が、たくさん起こっている。それを熟知した物理学者が、世界は情報で出来ているとか、パラレルワールドとか、ホログラフィック原理とか、言っている。
 量子力学を理解すると、死の恐怖が薄れるかもしれない。人間の意識は死後も滅びないと思えるかもしれない。死んだらすべて無になるなんて、あまりにも寂しい。永遠に生きる方が嬉しい。
 私とは何かというと、結局それは、記憶である。記憶を失えば、他はすべて残ってるとしても、死んだと同じである。逆に肉体が滅んでも、記憶だけが残っていれば、生きていると言える。
 死ねば記憶は滅びるだろう。しかし、蔵識とも呼ばれる永遠の生命——阿頼耶識では、すべての行動は蓄積される。行動には、体の行動、口の行動、心の行動の、三つがある。思うだけでも、行動になる。そしてその行動が、阿頼耶識に蓄積される。そしてそれが、来世を作る。悪い行動ばかりをしていたら、それが蓄積され、因果応報で、不幸な来世になってしまう。
 とは云っても、来世のことは誰も分からず、それは単なる仮説に過ぎない。しかし、仏教の思想と量子力学がリンクしているのは、興味深く思う。例えば、一切が空であるという思想。すべての物質は量子の集まりに過ぎないというのは、すべてが空であるという事だ。そして、自由意志はなく、すべては決定しているという、決定論という考え方もある。
 人間の意識も、プログラミングの賜物だろう。環境などの設定に従って、人間の意識も動いている。一秒後の意識の動きを決めるのは、すべてパラメーターで、その一秒の連続が、人生となる。つまり私が今日これからエビスビールを飲むかどうかも、すでに決まっている。だからそれについて悩む必要はない。

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