登山サークル アウトドアチャイルド

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<<「年末年始の迷走」
彷徨える独身者
投稿日
2026/01/03
 二〇二六年一月三日。土曜日。八時十分。青梅行きの電車の中。温かい蕎麦茶を飲んでいる。
 大晦日にスイカに五千円チャージしたが、それはすでに溶けてしまい、追加で二千円チャージした。年末年始で十万円使うことを自らに許していたが、結局まだ二万円くらいしか使っていない。だいぶ節約生活が染み付いている。いくら年末年始でも、無駄遣いはしたくない。
 雪山用の寝袋で眠り、朝起きてみたは良いが、まるで定年退職後の猛烈社員のように、何もする事がない。それで仕方なく、今日も外を彷徨う事にした。そうしているうちに、今日の生きる目的が、何か見つかるだろう。
 家には野菜オンリーカレーと、茹で豚がある。節約生活といったところで、流石に年末年始なので、普段よりは財布の紐が緩い。だからこんなにたくさんスイカにチャージしているし、二日連続で酒を飲んでしまってもいる。
 八時二十一分現在、奥多摩行きの電車に乗っている。車内はすいていて、悠々と座れている。
 昨日は登山サークルのホームページを修理する作業をしていた。サーバを変えた関係で、PHPのバージョンアップ対応をしなければならなくなり、それを最低限だけして、後は放置していたが、その作業をとりあえず一通り済ませた。それまではメール機能もぶっ壊れていたが、それも直した。しかしお問合せメールに、ロボットメールを大量受信していたのには面食らった。悪質なサイト攻撃者の仕業だろう。
 随分ご無沙汰している友人に、また楽しいサークル登山などを提案したいところだが、登山からは、随分と離れてしまっている。その提案の実現のための活動の一環として、登山サークルのホームページを修理して、ブログも久しぶりに投稿した。そして、今後もちょくちょく投稿していこうと思っている。
 登山サークルのホームページに投稿するブログなのだから、当然そのテーマは登山であるべきだ。そのためまた気が向けば、登山をしていくべきだ。しかしまだ、「べきだ」の段階で、「したい」とは思っていない。登山をすればしたで気分が良くなるに違いないが、どうもその気になれない。出費を極力避けたいというのが、一番の理由である。貯金が一億円あれば、もう二度と働かず、毎日登山しても良い。しかしその百分の一程度しか持っていないのでは、節約生活をせざるを得ない。
 もし登山するとしたら、高水三山が一番良いだろう。そこが一番安く登山できる。高尾山に行くと、天狗焼きを買ってしまったりとか、あれこれ金を使ってしまうだろう。
 本日、奥多摩の山は雪を被っている。初雪が降ったらしい。今日も良い天気である。
 とかなんとか書いてるうちに、早くも帰路についている。家に帰っても何もすることはないが、とりあえず、家でメシを食おうと思っている。
 それから何をしようか。小説の投稿でもしようか。そのために推敲でもしようか。
 投稿した小説のことごとくが読者からの反応薄である。それでもせっせと小説を投稿していこうと思っている。ノルマは百作である。今世中に百作以上は投稿したい。だから書いた小説は、自信あるなしに関わらず、なんでも投稿していく。そうしなければ、百作には到底届かない。
 書くという事も、立派な行動である。蔵識とも呼ばれる、永遠の生命——阿頼耶識には、行動のすべてが蓄積される。そしてそれが、来世を決める。行動とは、体の行動だけではない。それは、体の行動、口の行動、心の行動の、三種類がある。心で思うだけで、それは立派な行動となり、それは阿頼耶識に蓄積される。だから、書く事も立派な行動である。
 そして今、まるでロボットのように、だらだらとこれを書いている。どうせ、阿頼耶識的に見たら、永遠に生きるのだから、永遠の時間を潰すために、何かしなければいけない。
 来世はゴキブリとかムカデとかかもしれない。犬猫かもしれない。
 人間は死ぬとまた人間に生まれ変わるのか? あるいは犬猫になることもありうるのか?
 おそらく後者だろう。来世はミジンコとかネズミとかになる可能性もある。次に人間に生まれ変わるのは、輪廻転生を何度も繰り返し、一万年後かもしれない。一万年は長いが、しかし永遠に比べたら、一分後みたいなものである。
 阿頼耶識の目的は分からない。さらに、カール・グスタフ・ユングによると、どうやら人間意識の奥底には、集合的無意識なるものがあり、そこで人類すべての意識が繋がっている。しかし、とあるユーチューバーの説明によると、阿頼耶識は、人それぞれ別らしい。しかしその根っこの部分では、人類みな兄弟的に、人類全部が繋がっている可能性が高い。人類とは、一個の生命体かもしれない。そこから枝分かれして、各阿頼耶識があるのかもしれない。
 しかし、となると、私は、犬猫とは繋がっていないのか?
 と云う疑問が出てくる。
 もしかしたら、犬猫とは繋がっていないのかもしれない。犬猫は犬猫で、犬猫同士だけで繋がっているのかもしれない。
 しかし人間は人間だけで繋がっているなどと云う、そんな都合の良い話があるだろうか?
 やっぱり人間は、ゴキブリとかムカデとか蝙蝠とかとも繋がっているような気がするが、実際はどうなのか?
 そのあたり、とても知りたいが、知るすべがない。
 私はゴキブリと繋がっているのか? あるいは、人間は人間とだけ繋がっているのか? そして阿頼耶識の目的は?
 阿頼耶識というものは、きっとあるだろう。しかし、その目的は分からない。
 何を考えて、何を求めて、どういう目的で、阿頼耶識のぼけは、永遠に生き続けているのだろう。

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