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2026年1月11日
投稿日
2026/02/02
 2026年1月11日。日曜日。9時31分。立川行きの電車の中。温かい焙じ茶を飲んでいる。
 プログラミング言語Pythonの、数学をテーマにした本を見てこようかと思って、立川の本屋に向かっている。アマゾンで見ると、そういうテーマの本が、いくつか売られていた。
 昨日は少し数学の勉強を怠けてしまい、危機感を覚えている。もっとしっかり勉強しなければいけない。
 ユーチューブでは、受験生向けの数学の授業動画が多い。だから私も受験生になったつもりで、それに取り組んでいる。
 そして、次の仕事のことも考えなければいけない。
 そこで持ち上がってきたのが、Pythonだ。プログラミングで数学を学ぶというテーマの本が、なにかないだろうかと思ってネットで調べたら、すぐに出てきたのがPythonだった。
 Pythonは、数学との親和性が高いらしい。
 とりあえず私は、微分積分と微分方程式と量子力学のユーチューブ授業動画の内容を理解したい。
 その後は、何を勉強すれば良いのか。
 ベクトルとかも勉強した方が良いのかもしれない。
 数学を学ぶにおいて、何かゴールがある訳ではない。
 なんならこの機会に英語も学んでも良いかもしれない。
 Pythonの本を買うとなると、巨額の出費をしてしまうことになる。しかし年末年始で十万円を使うことを自らに許したが、それはまだ三万円くらいしか使っていないので、まだ多少の贅沢は許されている。だから、良い本があったら、思いきって買ってこようか。
 しかし思うけど、人間に、自由意志はあるのか、ないのか。
 私の考えを述べると、どちらかといえば、「無い」という考えに近い。
 自由意志は無い。未来は、すでに決まっている。
 ホログラフィック仮説、多元宇宙、マルチバース、この三次元は二次元の情報で出来ている、宇宙は九次元じゃないとおかしい——
 そういったような、とある物理学者が言っていることを鵜呑みにするのではなく、なぜそんな仮説が出てくるのか、その科学的根拠を、自分の頭でしっかりと理解したい。
 それが勉強の目的といえば、そう言えるだろう。しかし受験生向けの勉強ばかりしていると、ついその目的を忘れてしまいそうになる。
 10時55分。立川駅のホーム。温かい珈琲を飲んでいる。青梅行きの電車を待っている。
 私の永遠の生命——阿頼耶識のぼけから、6050円分も本を買わされてしまった。この無職の、一円も金を使いたくない生活の中で、その金額はエベレストほどにデカい。
 永遠の過去から今に繋がり、未来永劫続く、私の永遠の生命——阿頼耶識は、本当にあるのか?
 有っても無くても、顕在意識の私はどっちみちその存在を認識することができないため、それは、あってもなくても、同じこと事である。どうせ顕在意識の私は肉体と共に滅びるのだ。
 しかしこれだけ巨額出費をしてしまうと、もう素直に家に帰ってカップラーメンをすするしかあるまい。そして自分自身に、「ちゃんと数学の勉強しろ、こんぼきゃー」と言いたい。
 それ系の本を本日、6050円分も買ったのである。舐めるなと言いたい。
 しかし結句、家賃や水道光熱費その他を考えると、生命の維持のために、一日五千円くらいの費用がかかっている。それを考えると、一日も早く次の仕事を始めるのが、唯一の選択肢だ。
 とにかく、ちゃんと勉強しないとなあ。
 知識欲、ありますか?
 知識欲、生きてますか?
 知識欲、元気ですか?
 数学に、興味ありますか?
 昔、「ゼロの世界」なる小説を書こうとした。ゼロの世界とは、私が認識できているものだけしか存在していない世界である。すると、私は何一つ認識できていない事に気づいてしまい、その小説はまったく先には進まなかった。
 確かに私はこの世界のことを何一つ認識できていない状態で、この世界に存在している。動物たちの行動パターンも、私には認識できていない。
 ゼロの世界は、ゲームの中の世界だった。ゲームの外には私のモデルになった人物がいた。その人物のコピーが、ゲームの中の私だった。その人物は、そのゲーム開発プロジェクトの主要人物であった。
 ゼロの世界というゲームのスタート地点は、森の中であった。そこに住む動物はみな木偶の坊だった。私が近づいても逃げもしない、人形のような動物たちであった。
 なぜそんな事になるのかというと、私が動物のことを何一つ理解できていないからだ。そんな私が認識している動物は、人形のような動物になる。
 そんな事を思いながら、私は電車を待ち続けていた。
 とりあえず、これはホームページにブログを投稿するための文章であった。そこには面白いものを書こうという意識が欠如していた。ただロボットのように、私はこれを書き続けていた。
 こんな風な書き方で良いなら、私は無限にこんな文章を書き続ける事ができた。
 しかしこんな文章を読む物好きは、この大宇宙に誰一人存在していないだろう。そんな文章を、私はダラダラと書き続けていた。
 これはまるで現実を御菜にした自家発電のような文章であった。こんなものを書いている暇があったら、購入した本を一行でも多く読む方が有益な時間の使い方であった。
 しかし、それもダルいのである。何をするにもダルいような気分の中、私はこれを書き続けていた。
 私は腹が減ってきていた。早く家に帰って飯が食いたかった。
 青梅行きの電車がやってきたので、私は乗り込んだ。私はこれから業務スーパーで買い物をしようかどうかと悩んでいた。
 家にはカップラーメン、納豆、米、トマトジュース、蜜柑があった。だから別に、何も買わなくても食うものに困らなかった。
 しかし私はなにか味噌汁でも作って、それをうどんにかけて食いたい気分だった。白菜キムチなんかも買いたい気分だった。
 私は昨日、四千円以上出して米五キロを購入し、本日は6050円も出して本を買ってきてしまっていた。そして今月の水道光熱費やガス代の請求もそろそろ来そうに思われていた。
 色々と金のかかる事ばかりで、私はうんざりしていた。
 私は金を稼ぐ事が得意ではなかった。金を稼ぐことは私にとって苦役以外の何物でも無かった。
 私には生きていくのが苦しい事のように思われていた。だから強気であることが必要なように思われていた。
 人生は四百メートル走と同じであるように思われていた。それは弱気だと地獄のように辛い競技であった。しかし強気なら楽だし、結果も良い競技だった。
 人生はそれと全く同じ事だと私には思えていた。
 つまり私は百歳を超えてもバリバリ働き続けるくらいの気力を持つ必要があった。
 働いて働いて働いて働いて働き続けなければいけなかった。働いて働いて働いて、もっと働き続けなければいけなかった。
 死後一円でも多くの金が残るくらいに貯金を増やしていくつもりで、頑張ってやっていかなければいけなかった。
 仕事は選ばなければ、いくらでもありそうに思われていた。
 しかしそんな私が注意すべきは、「酒」なように思われていた。アル中にでもなったら大変な事だと、私は思っていた。
 辛いからといって酒を飲んで現実から逃げているようではどうしようもなかった。現実と真っ向から対峙することが逞しい生き方であるように思われていた。
 酒を飲まなければ、後は何をしても良いように思われていた。禁酒さえしていれば、後は何をすることも許されているように思われていた。
 しかし体調が良い時ほど、特に酒を飲みたくなるものであった。
 そうだ、まさに、何をしても許される。
 別に数学の勉強なんか、したくないならしないでも良い。ずっとAVばかりを観てても良い。キャバクラでも風俗でも、いくらでも行けば良い。
 しかし酒だけはダメだ。やめておけ。
 酒だけは飲まずに我慢するほうが良いと、私は自らに言い聞かせていた。
 いやいや、とはいっても、少しは数学を勉強しよう。話はそれからだ。
 家に帰って、真っ直ぐに数学の授業動画を観る。話はそれからだ。
 つべこべいう前に、まずは数学の動画を観るのだ。まるで息をするように当たり前に、数学の動画を観るのだ。
 もう、数学の動画だけを観てろ。後はもう何もしなくて良い。陰嚢握って寝てろ。
 数学だけはやっとけ。今はそれだけが唯一の選択肢だ。
 という意見もある。
 次は羽村である。そろそろこの文章を止めても良い頃合だ。
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