登山サークル アウトドアチャイルド

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おめおめ、むかし(二ツ塚物語)
投稿日
2022/05/23
おめおめ、むかし。

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二ツ塚物語

旧二ツ塚の頂きに、小さな二ツの塚があります。
桜の木の根本にあって、今も花や水が供えられています。
今から何百年もの昔、
この峠の麓に貧しい母と娘が住んでいました。
不幸にして母親は、不治の病にかかりだんだんと病も悪くなり、死が近い事を悟っていました。
ある日のこと、見舞に来てくれた村人に、
母親はこんなことをお願いしました。
「わしはもうすぐ死ぬ。わしは村の為に何の役に立つ事もできなかった。だからわしを生きているうちに峠の頂に埋めておくれ、死んだらこの峠を守るから」
それを聞いた娘は、母を思い、
「私を一緒に埋めておくれ」と涙ながらに頼みました。
しかたなく村人たちは大きな籠に母と娘を一緒に入れて埋める事にしました。
村人たちは籠を峠の頂に埋め二ツの塚を作って
弔いました。
それ以来二ツ塚と呼ばれ、薄幸の親子を偲んで今も、
掃除や土盛をして供養をしているとのことです。
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おめおめ、むかし、はい、おしまい。


昨日は一日読書に励み、なんとか本を一冊、二日がかりで読み終えることができた。
1ページが576文字で、525ページもある本だった。
ただし、面白い小説である。
それをなんとか、昨日読み終えることができた。
昨日は頑張って、300ページくらい読んだと思う。
それでだいたい現在の自分の読書の限界量というものを、おおむね理解することができた。
だいたい丸一日かけて、1ページが576文字として、300ページ読めば、もうへとへとになる。
これは一気に300ページ読むのではなく、50ページ読んで休んで、50ページ読んで休んでという感じで、途中散歩を入れたりなどして、なんとか頑張って丸一日かけて、300ページくらい読むという感じである。
つまり1ページが576文字で、300ページなので、合計で17万2800文字くらいが一日で読める限界文字量という計算になる。
このくらいの読書量が、どうやら現在の私の、一日の限界量のようである。
読書に慣れている人、読書好きな人であれば、一日に100万文字以上くらい読めるに違いない。
私が二日がかりで読んだ525ページの小説を、三冊くらいは一日で読むに違いない。
しかし私はどうしても現状は、そんなにたくさん読めないのである。
面白い小説であるにも関わらず、それでも300ページくらい読めば、疲れてしまう。
それでその合間にユーチューブを観たり、散歩をしたりしてしまう。
私には顎関節症らしき症状の持病があり、その症状が、あまり長く読書しているとひどくなる。
それで、到底これ以上読書していられないという状態になる。
それでも頑張って、部屋の中を歩きながら読書したり、いろんな体勢になって読書したり、口に出して文章を読んだりなどして、なんとか読書を継続させる。
それでなんとか、昨日は一冊読み終えた。
そしてそれを読んでいる間、「別に面白くないなー」などと思いながら、いやいや読んでいるわけである。
その小説家の小説は面白いという印象があって、それで以前に読んだものをもう一度読み直しているのだけど、改めて読んでみると、あまり面白くないのである。
「面白くないなー」と思いながら、いやいや読み続けていたというわけだ。
そしてその小説家の小説がもう一冊あって、それも今回、読んでしまおうと思っている。
面白かろうと面白くなかろうと、気にせずどんどん読んでいかねばならない。
購入して家においてある本、またはもう一度読んでみようと決めた本は、無理してでも頑張って読んでしまおうと思っている。
しかし一日で17万2800文字しか読めないとわかっているので、それを考えると、読むものは厳選して読んでいったほうが、良いようにも思っている。
なんでもかんでも、無理して読むのは問題だ。
読める量は限られているので、読む価値のあるものだけを厳選して、読んでいったほうが良いのではないか。
逆に今は、「この本は、一生読みそうにないな」と思うものや、「この本は読むことがなさそうだから、捨ててしまおうかな」という本ばかりを、優先的に、先に読んでいる。
さながらそう、一番好きな食べものは一番最後に食べるがごとく、まずはあまり好きではない本を先に読んでしまい、そして最後に一番好きな本を読もう、そのように考えているのである。

しかしどうも、体調が悪い。
持病である顎関節症らしき症状の持病が、悪い。
喉の調子もおかしい。
どうも、健康不安である。
本当は、今日も読書三昧の一日にするつもりだった。
しかし読書してると、体調がますます悪くなる。
やばいのではないか。
どこか悪いのではないか。
などと、思う。
一体なぜ、こんな症状が出てしまっているのか。
以前、病院に行きまくったこともあったが、結局原因不明の症状だった。
それで精神的なものだと判断され、心療内科とか精神科とかを、勧められたりもした。
そこでムキになって自分の症状を訴えても、ムキになればなるほど、医者はますます、精神がおかしいやつという目で、私を見る。
だから、ムキになってはいけない。
でもムキにならないでいると、医者は何も教えてくれない。
何も説明してくれない。
東京医科歯科大学の女の先生は、私のこの症状がなぜ起こっているのは、把握したようだった。
その上で、私には何も説明しない。
ただ、「治すとなると大工事になるので、今のまま安定するなら、そのほうがいい」という、謎の発言をした。
そのように、その先生は、私のこの症状がなぜ起こってるのか把握したようだが、それを私にまったく説明しない。
説明すると、「じゃあその大工事をしてください!」などと私が言い出すかもしれないと思ったのだろうか。
そう言われてしまうと患者の意思を尊重して、その大工事をしなければいけなくなる。
だから、私に何も説明しない。
説明せず、「そのまま安定するなら、そのほうがいい」と、そのような判断なのだろう。
だから本当に医者という連中は、実にけったくそ悪い話なのだけど、肝心なことは何も説明してくれないのである。
さながらそう、虫を見るような目で、私を見るのである。

そのような症状があり、その症状が昨日はひどかったので、私は健康不安を感じた。
それで今日は仕方なく、登山にいくことにした。
健康になりたいなら、健康でありたいなら、登山をするのが一番。
私はそのように、思っているのである。

そのような理由から、本日は登山した。
しかし現在、私は無職なので、極力金を使いたくない。
ということで、自宅から一番安く行ける山である、「赤ぼっこ」周辺エリアを、今日は開拓してくることにした。
まずは、青梅駅まで移動した。
そこから登山口まで歩く。
登山口には、天祖神社という、神社があった。
その神社の境内を通って、登山口に入っていく。
そして登っていく。
まず目指すのは、「旧二ツ塚峠」という場所である。
そこにまず、到着した。
すると冒頭に掲載した、「二ツ塚物語」というものが書かれた文章が掲示されていた。
私はそれを読み、スマホで撮影もした。
「二ツ塚物語」は、昔話のようである。
八王子市にも、「とんとん昔話」という名前で語られている、昔話がたくさんある。
高尾山に関する話も多い「とんとん昔話」は、書籍化されたりなどもしているが、それと同じような昔話が、きっと東京都青梅市にも、たくさんあるのだと思う。
「二ツ塚物語」は、そういった昔話の一つだと言えるだろう。
親子もろとも生き埋めにしてしまうという、現代人の感覚からいうと、なんとも惨たらしい話である。

旧二ツ塚峠から、馬引沢峠に移動する。
そして今回は、赤ぼっこをスルーして、天狗岩を見てくる。
気づくと、私は天狗岩の上にいた。
そこは一方向だけ眺望がひらけていて、良い風景を見ることができた。
そして引き返す。
次は、要害山にゆく。
その手前に、無名山のピークがある。
登ってみようかと思ったが、今回はやめておく。
どうも少し、トイレに行きたくなっている。
要害山に到着したが、木に囲まれて展望のない、地味な場所であった。
さらに進むと、次は松龍山に到着した。
そのあたりのエリアは、工事中である。
太陽光パネルの設置工事をしているらしい。
私がそこに到着した時、工事は行われていなかった。
そして時刻を見てみると、12時25分だった。
13時になると、工事は行われるだろう。
以前にも私はそこで長い休憩をして、食事をして、しばしそこで羽を伸ばしたものである。
今日もコンビニでおにぎりを四つ買ってきたし、家からバタピーやポテチも持ってきているし、烏龍茶もあるし、ブルーシートもあるので、本当は今日もまたそこでのんびりして、そこで食事をしたかったのだが、いかんせん少しトイレに行きたくなってしまっていたので、そのため念の為、何も食べず、何も飲まずに、今回は、さっさと登山を終わらせることにしたのである。

その場所の名前は、本当に松龍山の山頂ということで、合ってるのだろうか?
その場所には石祠がある。
そしてその石祠の近くに、石の柱が立っている。
その柱に、「松龍山守堂 白山社」と、掘り込まれいるのである。
だから私はその場所を、松龍山の山頂であると認識したわけだ。
そしてその石祠には、お賽銭がおかれている。
先日、私はそこのお賽銭を、いくらあるのか数えてみた。
数えた上で、百円、五十円、十円、五円、一円と、それぞれ綺麗にわけて、置いておいた。
それをしたのは二日前で、そのお賽銭はもうなくなっているだろうかと思いきや、今日も私が分けておいた通りの形で、お賽銭はそのままであった。
そして私は、また改めてお賽銭を数え、そしてまたあらためてきちんと分けて、お賽銭をおいた。
正確な金額を言うと、そこに置かれていたお賽銭の額は、1319円だった。
百円玉が、7枚。
五十円玉が、6枚。
十円玉が、27枚。
五円玉が、8枚。
一円玉が、9枚。
それで合計、1319円だった。
私はそれらを、きっちりわけた。
百円玉だけを積み上げ、五十円玉だけを積み上げた。
そして十円玉は十枚ずつ三山に積み上げ、一円玉も一円玉だけで積み上げた。
そのようにしておけば、金額がいくらなのか一目瞭然でわかる。
本当は、財布から五百円玉や百円玉を引っ張り出し、お金を交換して、もっと金額がわかりやすい形にしたいところだった。
例えば五百円玉を二枚、百円玉を三枚、十円玉を一枚、一円玉を九枚としておけば、ますます金額はわかりやすくなる。
でも勝手に貨幣を置き換えると、よくないかもしれない。
あえて五円を置いてる人も、いるのかもしれない。
そこは手を出すべきではないだろう。
そこに一円玉を加えると、きりの良いところで1320円になるので、私は自腹で一円玉を置いてあげようかと思ったが、そのように考えたのは、すでにその場を後にしてからだった。
そこから、下っていく。
本来は山のどこかで腰をおろし、のんびりしたかったが、少しトイレに行きたかったので、それは断念した。
山でトイレをして、葉っぱでお尻をふくということも考えたが、しかしそれは私にとっては一大イベントになってしまい、今回はそれをするのも億劫であったので、今回はそのまま素直に下山することにした。
すると途中で、奇妙な風景を目にした。
道に、縄が落ちている。
そしてその縄に、びっしりとハエがたかっていた。
いや違う。
それは、縄ではない。
単なる縄に、あんなにハエはたからない。
近づくと、その縄からは干物のような匂いがする。
それは縄ではなく、死んだヘビだった。
車にでも轢かれ、ぺっちゃんこになってしまったヘビのようだった。
そのヘビに、ハエがたかっていたのである。
毒でもありそうな、少し毒々しい模様をしたヘビのようだった。
そこでヘビは潰されて、それで日光をあび、身体の水分がすっかりなくなって、そして干物状態になってしまっているようだった。
そして、それをハエたちが食っていた。

さらに下山する。
すでに、家のある通りである。
下っていると、突然、犬が吠えた。
やれやれと思う。
残念ながら、この道は犬が吠える道である。
私は犬が吠える道は、嫌いである。

そのように下っていき、道路に出る。
そして宮ノ平駅に到着して、トイレを済ませて、そしてさっぱり、洗面台で顔を洗った。
それから電車に乗って、最寄駅まで帰ってきて、そしてスーパーで、サバの味醂漬け、グレープジュース、鶏砂ずり、ピーマンなどを購入して、家に帰ってきた。
家に帰ってからおにぎり四つを食べ、煮た鶏砂ずりを食べ、バタピーを食べた。
そしてコップに黒酢をたっぷり入れ、そこにグレープジュースを入れ、それを一気に飲み干した。
今日はそのようにして黒酢を飲みたかったので、グレープジュースを買ってきたのである。

しかしやはり、今はとても気分が良い。
登山にいくと気分が良くなり、気が大きくなる。
身も心も健康状態になり、ついつい美味しいものを色々買ってしまう。

健康。
今私は何よりも、健康が一番大事であると、そのように思っている。
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